歴史ある日本の伝統工芸伊賀焼の特徴|人間国宝っているの?

忍者の里・伊賀で焼かれる伝統工芸品「伊賀焼」とは

伊賀市は三重県の北西部に位置する山々に囲まれた盆地地帯で、京都・奈良に隣接していることから、古くは都と伊勢を結ぶ街道を有する交通の要所として栄えてきました。そんな地で作られる伊賀焼の特徴や、人間国宝がいるかどうかなどについてご紹介していきます。

伊賀焼の特徴

伊賀焼とは

伊賀焼は、三重県の北西部の伊賀市付近で製造される陶磁器です。

伊賀周辺は、古くから良質な陶土が取れることや森林が豊かで焼成に必要な薪が豊富に恵まれた環境であったことから、焼き物の産地として発展しました。1982年に伊賀焼は国の伝統工芸品に指定されており、三重県の地域ブランドにも認定されています。

古伊賀は日本陶磁の最高峰とも

伊賀の焼き物の歴史は奈良時代に始まります。当時は「須恵器」と呼ばれる土器が焼かれていました。鎌倉時代に入ると農民たちの手によって農業用の壺やすり鉢、寺院の瓦などが作られていき、それが伊賀焼と呼ばれるようになりました。

伊賀焼が発展したのは、武士の間で茶の湯文化が盛んになった17世紀初めの桃山時代のころです。1584年、伊賀上野の藩主に命ぜられた筒井定次は、茶人として大成して織部焼きでも知られる古田織部と親交がありました。

そのため、古田織部の指導により槙山窯などで茶の湯の道具である水指や花入などの茶陶器が焼かれるようになりました。この時期の伊賀焼は「筒井伊賀」と呼ばれています。その後、伊賀国主となった藤堂高虎・高次も伊賀焼を奨励しました。この時期の作品は「藤堂伊賀」と呼ばれています。

筒井伊賀・藤堂伊賀は合わせて「古伊賀」と呼ばれます。古伊賀の作品は日本陶磁の最高峰とされ、国の重要文化財にも指定されています。

茶湯文化で隆盛を極めた伊賀焼は桃山時代が終わるころに一時衰退しましたが、18世紀中期(江戸時代)に藤堂藩の支援により再興。丸柱周辺で食器や鍋など日常で使用する雑器が中心に焼かれるようになり、伊賀焼の基礎ができあがったのがこの時期です。

江戸時代中期以降のものは「再興伊賀」と呼ばれており、土鍋や食器など日常使いのものが庶民の間でも人気となり、全国へと広がり現在に続いています。

激しい造形や力強さが魅力

伊賀焼を代表する古伊賀には、大きく三つの特徴があります。

装飾

古伊賀の器の表面には、ヘラ工具を使用した波状の文様や格子状の押し型文様などの装飾が施されています。

変形

古伊賀には、整った形をあえて手で歪ませ形を崩す手法をはじめとした個性的な作品が多くなっており、これは「織部好み」とも呼ばれています。

窯変

窯のなかで色味が変わることを「窯変」と言いますが、古伊賀は、高温で焼かれることで窯のなかにある薪の灰が自然釉となり緑色のガラス質になるビードロや、灰かぶり、黒い焦げなどが表面に現れています。また、赤く引き締まった肌合いは素朴で力強い印象をもたらします。

以上のような激しい造形や、窯変による自然釉によってできた器の表面の景色は伊賀焼の特徴であり、豪快でありながら茶の湯文化の神髄でもある「わび・さび」を持つ作風と言えます。

同じ三重県にある信楽焼に類似していると言われますが、伊賀焼は信楽焼よりも硬くて重みがあります。

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また、「筒井伊賀」の時代に焼かれた焼き物には一対の「耳」と呼ばれる取っ手が付いていることが特徴で、信楽焼と見分けるポイントとなります。

 

伊賀焼に人間国宝は存在する?

土楽窯の福森雅武氏が有名

伊賀焼の作家で人間国宝になった方は現時点でいらっしゃいませんが、有名作家として知られるのは土楽窯の七代目である福森雅武氏(以下「福森氏」)です(2022年12月時点では福森道歩氏が八代目当主)。土楽窯は伊賀焼の代表的な窯元として名高く、現在でも多くの作品を生み出し続けています。

1944年に生まれた福森氏は、16歳で父を亡くし25歳で土楽窯の七代目当主となりましたが、このとき、父の死をうけて土楽窯では多くの職人がこの場所を離れていっていました。まさに危機的な状況です。

さらにこの時期は、大量生産のために造形を機械化・型押しする窯元が増えていくタイミングに重なります。しかし、そんな状況でも福森氏は自らの信念と伝統を守るため、土や釉薬を伊賀産から変えないのはもちろんのこと、ろくろを使って手で成形し、登り窯で焼く手法を守り抜きました。

その努力が実り、2003年にはフランスで個展を開催したほか、複数の著書(『土楽食楽』(文化出版局)など)も執筆するなど、精力的に活動されています。

古伊賀は重要文化財にも指定

先述したとおり、力強いたたずまいなどが特徴の古伊賀の作品は日本陶磁の最高峰とも呼ばれるほどで、この時代に作られた花入や水指といった合計6点は国の重要文化財にも指定されています。さらに、その美しさは作家の川端康成にも知られるところで、1968年に受賞したノーベル賞の受賞記念講演(ストックホルムのスウェーデン・アカデミーで開催)の中で、古伊賀が「わび・さび」を始めとする日本文化を象徴する焼き物として言及されたほどです。

 

伊賀焼の良さを楽しむ

伊賀焼の良さを楽しむ

長谷園 かまどさん 2合炊き

長谷園は、1832年創業の伊賀焼老舗の窯元として、伊賀焼の伝統と技術の継承に尽力している窯元です。さまざまな機能を持つ土鍋を中心に日常使いの食器などで伊賀焼の魅力を伝える長谷園は、三重ブランド「伊賀焼」の認定事業者に指定されています。

長谷園の敷地内にある16連の旧登り窯は1832年の創業時から1970年代まで稼働していた歴史ある窯で、日本に現存する窯は長谷園のみと言われており、2011年には国の登録有形文化財に登録されています。

また、大正時代に建てられた大正館や長谷家の住居であった母屋や別荘も、明治・大正期の窯元を今に伝える大切な文化財として国の登録有形文化財に登録されています。

このような歴史ある伊賀焼の窯元・長谷園が製造・販売する「かまどさん」は、ガスの直火で炊飯する土鍋。難しい火加減の調整も不要で、二重釜になっていることから圧力釜の機能としても優れ、吹きこぼれの心配がいらない土鍋として人気です。

陶土は伊賀の粗土のため吸水性があってベタつかず、遠赤外線効果によってお米の芯まで熱が通るため、かまど炊きの本物のふっくらごはんを食べることができます。そのほか、直火が当たる部分は肉厚形成になっており熱を蓄えるため保温性に優れています。

伊賀の魅力あふれる特産品を認定するIGAMONO(いがもの)に認定されている商品です。

長谷園 卓上燻製器 いぶしぎん

伊賀で産出される陶土は高温で焼成すると細かな気孔ができる多孔質で、「呼吸する土」と言われるほどの粗土です。そのため、遠赤外線効果や吸水性に優れており、機能性を重視した土鍋作りに最適です。

「いぶしぎん」は自宅で楽しむ燻製の土鍋で、本体とふたの間に水を張るシーリング効果により煙が外に漏れない仕組みとなっています。スモーク用のチップを鍋底に敷き、その上に食材をセットし、溝に水を注いで強火で加熱すると30分ほどで燻製が完成します。

いぶしぎんも、「かまどさん」と同様にIGAMONO(いがもの)に認定されています。

土楽窯 土鍋 魚絵鍋一尺

土楽窯は、福森氏が7代目を務めた歴史ある窯元で、伊賀市丸柱にあります。

魚絵鍋は、「イッチン」と呼ばれる生素地に鉄絵具で二匹の魚が力強く描かれた商品で、鍋の内部は白くて食材が映えます。熱伝導・保温性に優れた商品として人気です。

伊賀焼 湯呑み

伊賀焼の焼き締めの良さが伝わる焼湯呑みは、遠赤外線効果でおいしいお茶が飲めることで人気です。日本人の手になじむ大きさと手作りの形で心地よい手触りを感じることができます。また、一般的な陶器の二倍の厚みがあり、高温でしっかり焼かれているために丈夫です。

 

伊賀焼窯元「長谷園」による年に一度の窯出し市

伊賀焼窯元「長谷園」による年に一度の窯出し市

窯出し市とは

窯出し市は、長谷園により年に一度開催される大陶器市です。

毎年5月2日から4日にかけて開催され、アウトレットの土鍋や掘り出し物の陶器など多くの商品が並び、2万人以上の焼き物ファンが全国から訪れてにぎわう恒例行事になっています。

長谷園は、定番から外れた商品や色ムラなどで納品されなかった商品の在庫が増え続けるなか、丹精込めて作ったそれらの焼き物の販路開拓を模索していました。

長谷園がある丸柱地区は窯元の集落であり、同じような悩みを抱える窯元と共同での開催を検討していましたが、在庫品を販売するという前例のない取り組みに消極的な声が多く、当初は長谷園のみで蔵出し市を開催していました。

ところが、良品が手に入ると噂が広まって人気となり、回を重ねるごとに来場者も増大していき、今では伊賀の一大イベントとして成長するに至りました。

窯出し市の内容

土鍋や食器の在庫一掃の特価セールや雑貨などの販売、また、伊賀焼の作家による作品の展示販売も行われます。

グルメ店舗も多数立ち並び、買い物の合間に食事や休憩のお茶席を楽しむこともできます。そのほか、三重県の農産品や植物の展示販売も行われています。

 

茶の湯文化とともに発展した古伊賀は、個性的な造形や窯変による一期一会の表面の景色が独特で、わび・さびを伝える伝統工芸と言えます。現在でも日常使いの食器を中心に良質の陶土を活かした伊賀焼の、さらなる進化に期待です。