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難病の発症がきっかけで人生の目標を45歳に
光野(長崎県島原市 地域おこし協力隊):自分の人生設計がありまして、45歳で無人島を買って住むんです。そこから逆算して、40歳で仕事をリタイアするんですね。すると、35歳くらいで自分のビジネスを確立させる必要がある。さらに10年前の25,6歳くらいの時からビジネスを始めていく。
愛甲(株式会社イタドリ 代表取締役):60歳に人生の目標を置く方は多いですが、それを45歳に持ってくるというのは珍しいですね。
光野:そのきっかけで病気があったんです。
愛甲:そうでしたね。実は光野さんと僕にはかなり共通点があって、1990年度生まれで大学も同じなのですが、それに加えて「潰瘍性大腸炎」という難病にかかって入院したことも共通しています。
人生の半分は遊んで過ごしたい
光野:初めての発病が大学2年生のころでした。旅先で倒れてしまって。ヘモグロビンの数値が基準値の7割くらいだったかと思います。2〜3週間ほど入院をしまして、その時に潰瘍性大腸炎は治らない(「寛解」という表現を用いる)病気だと知りました。
そこで自分なりに思うところがあって、45歳までは頑張ろうと決めたんです。自分は根っからの遊び好きなので、45歳以降の人生の半分くらいは遊んで過ごしたいなと。
愛甲:「半分」とありましたが、「人生90年時代」という単語も生まれていますので、その折り返し地点として45歳と定めるのは確かに理にかなっているかもしれませんね。
光野:ただ、大学を卒業したらまずは何かしらの企業には入ろうと。そこで問題解決力を身に付けていきたいと考えていました。そして、農業とは別の分野が良いと思って入ったのがIT系の企業、内定をもらっていたワークスアプリケーションズでした。
病気の再発から転職を経て、独立を決心
愛甲:結局、大学を卒業してからすぐ、社会人一年目の年に就職したんですか?
光野:そうですね。でも、入社をして半年ほど経ったときに渋谷で倒れたんです。
愛甲:潰瘍性大腸炎の再発ですか?
光野:はい。1ヵ月半の再入院をして、半年間ほど休まざるを得なくなってしまいました。会社には復帰したのですが、それからしばらくして転職することになります。
愛甲:そうだったんですね。次の会社はどのようなところですか?
光野:転職先の会社は今年で設立10年ほどになるところで、東京産の野菜ブランドの確立を目指しています。東京の野菜を都内のレストランや小売店に展開しようとしているのですが、この会社で直売所や宅配サービスを含めたECの開設といった新事業の立ち上げで半年間ほどお世話になりました。
そして、この会社を辞めてしばらく経ったあと「そろそろ自分で何かをやるタイミングかな」と思ったんです。
九州はたくさんの種類の野菜が作れるから面白い
年間を通して野菜が作れる
光野:中学生のころから毎日二時間も満員電車に揺られていたということもあって昔から東京の人混みが嫌いで、田舎への憧れが非常に強かったんです。そして、実際の移住先を決めるために日本全国、具体的には農業の現場を見て回ることにしました。
東京で自分がやるべきことはないと感じていたので、地方で、かつ農業の現場に入り込んで農家の方と一緒にできる仕事がしたいと思っていました。
愛甲:なぜ九州だったんですか?
光野:まず一つは雪が少ないからですね(笑)寒いのが好きではないので。もう一つは、年間を通して農業ができる地域が良かったということです。北海道などの寒い地域は、夏に野菜を作って冬は休みます。一方、九州は年間を通して野菜を作っているんです。それだけ農業に関する資源があるということですから、面白いなと思いました。
それに、東京の人にとって九州の野菜のイメージはあまり確立されていません。イメージがあるとしても熊本、あるいは鹿児島といったところです。
愛甲:熊本のイメージはありますね。キュウリ、ゴーヤ、カボチャなど、たくさん見かけます。
光野:まさにそこです。九州の魅力はたくさんの種類の野菜が作れるということなんですよ。一つの地域・農家が作れる野菜の種類は限られるのが普通なのですが、九州は土地が狭いということも影響して、一年を通じて何かしらの作物が作られています。この利点を活かしていきたいと思いました。
経営環境は厳しいが、楽しんで仕事ができる
愛甲:一方、土地が広いメリットは何でしょうか?
光野:土地が比較的ある場所、主に東北あるいは長野より北にあたる地域では、1シーズンで同じものをガッと作るだけで儲かる仕組みができています。もちろん天候不順などで壊滅的な被害が出てしまった場合は別ですが、基本的には農協で確立された流通ルートがありますからね。あとは、東京までの交通の便が良いことも理由の一つです。
ただ、あくまで僕の感覚ですが、長野より北の単一の作物を作っている農家の方とお会いしてもあまり心から楽しんでいるようには見えなくて。もちろん、九州に下っていくにつれて経営という面では非常に厳しい現実を見せつけられますが。
愛甲:モチベーションも大切ですからね。価格の面でいうと、九州が狭い土地のなかでも単一品種に絞って他の地域の野菜に勝とうとすることはやはり現実的ではないですか?
光野:やはりブランド自体が確立されていないですからね。農協を通じたシステムができている以上、厳しいと思います。
愛甲:ところで、農協の買取額はどのくらいになるんでしょうか?
光野:品物によりますね。スーパーなどに並んでいる末端価格から考えると、5割か、それに満たないくらいといったところです。
愛甲:それから、規格を基準に買い取ると、味の面ではものによって大きな差が出てきますよね。
光野:そうなんです。例えばスーパーで同じ大きさで同じ値段の大根が2つ売られているとしても、その産地や作り方によって大きな差が生まれてしまいます。
移住先の決定 そして、一週間ですぐ移住
愛甲:先ほど九州全体の話をしましたが、そのなかでも、なぜ島原市を選ばれたんですか?
光野:実は、移住先を決める以前に島原へは四度行っていたんです。熊本によく行っていて、それが長崎からのフェリーなんですね。長崎から諫早、島原、そこからフェリーで熊本に行くわけです。つまり島原はその中継地点。
とはいえ島原城に一度訪れただけで、「何もない地域」というイメージでした。ただ逆に、何も知らなかったからこそ住んでみたいと思ったんです。ですから、島原の農業の現状を知ったのも移住してからでしたね。
愛甲:子どものころに車で通ったことがありますが、確かにあのあたりは何もないですからね。
光野:ただ、実際に移住となると、その土地の方と馴染むのはとても大変です。そこで目を付けたのが行政でした。自治体の方と多くお会いしているなかで、たまたま島原市長とご一緒させていただいたんです。地域おこし協力隊の制度もこのタイミングで知りました。
行政から入り込める手段が見つかったのが非常に大きかったです。さまざまな角度からアプローチするチャンスがあるのではと思いました。
愛甲:役場の看板を背負えるのは、地域で活動していくうえで非常に大きいですよね。
光野:同時に、島原が野菜の一大産地だということも知りました。長崎県の生産額の内の約40%も占めるんです。島原に知人がいたことも後押しして最終的に移住を決め、一週間後には引っ越していました。
愛甲:おお、すごい。さすがの行動力。実際に地域おこし協力隊になられたのはいつからですか?
光野: 2016年1月です。ですから1年半(取材時)くらいですね。
愛甲:国としても、「まち・ひと・しごと創生法」に則って定めた総合戦略に従って「地域おこし協力隊を増やしていきましょう」と、積極的に行動をはじめた時期ですね。今は約4,000人にもなりますが、まだ当時は1000人とか、その程度だったように記憶しています。
光野:急に増えましたからね。
(次記事:「県内外に品質の良い野菜を届ける」)